大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

横浜地方裁判所 昭和53年(ワ)554号 判決

原告

須田泰昭

須田典子

原告兼右原告両名法定代理人親権者父

須田洋

右原告ら三名訴訟代理人弁護士

高橋融

牛久保秀樹

伊佐山芳郎

田中憲彦

被告

医療法人柏堤会

右代表者理事

船越正美

亡山口周一訴訟承継人被告

山口由美子

田中伸一

佐野恵美

右被告ら四名訴訟代理人弁護士

藤井暹

西川紀男

橋本正勝

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

理由

第一当事者に関する事項並びに本件医療事故発生の経過について

一請求原因1(当事者に関する事項)については、被告病院が総合病院であるとの事実を除いて当事者間に争いがない。〈証拠〉によると、被告病院は昭和四八年当時において、内科、外科、小児科及び産婦人科の各科を備え、これを担当する医師は、小児科が一名、他の各科がそれぞれ二名であつたものと認められ、この認定に反する証拠はない。

二〈証拠〉を総合すると、博子は第二子を懐妊して、昭和四八年一月二三日亡山口医師の診察を受け、以後定期的に同医師の診察を受け、特段に異常な所見はなく経過したが、分娩予定日と診断された同年九月二日を経過した同月六日になつても陣痛が開始せず、子宮口は二指開大、児頭は固定していない状態であつたため、亡山口医師は、亡博子の陣痛を誘発するため、陣痛誘発剤デリバリン錠を、同月六日に四錠(一回一錠ずつ四回)、同月一〇日に四錠(服用方法は前に同じ)服用させたが、その効果がみられないまま経過していたところ、同月一三日午前四時五〇分ころ、亡博子に分娩の前兆とみられる出血(いわゆる「しるし」)があつた旨の連絡があつたので、同日午前七時及び八時の二回にわたりデリバリン錠を各一錠ずつ服用するように指示した上、同日午前八時三〇分ころ山口産婦人科病院に入院させたこと、入院後の同日午前九時及び午前一〇時の二回にわたりデリバリン錠を各一錠ずつ服用させた結果、同日午前一〇時過ぎころ、陣痛発作約三〇秒、陣痛間欠約七分の陣痛がみられたが、間もなく微弱陣痛になつて陣痛が停止したこと、子宮口は三指開大の状態であつたこと、このような経過、情況に基づいて亡山口医師は、亡博子の分娩が遷延して難産になるおそれもあると判断し、このような場合に、通常分娩の介助等のため応援を依頼していた山崎医師に応援を依頼しようとしたところ、同医師に差し支えがあつて応援が得られなかつたため、人的、物的に整つている他の病院に転院させるべきであると判断し、以前からこのような患者の受け入れを依頼していた被告病院を転院先とし、その旨原告洋、亡博子に説明して、転院を指示したことの各事実を認めることができる。

〈証拠〉を総合すると、亡博子は、亡山口医師の指示に従つて直ちに被告病院に赴き、同日午後一時ころ被告病院産婦人科において、荻野医師の診察を受けた後分娩室に入り、荻野医師の手により分娩が開始され、同日午後三時三〇分ころ吸引分娩により原告典子を娩出したこと、その後、胎盤娩出後亡博子に多量の出血が生じたこと、これに対し荻野医師は、止血剤、昇圧剤の投与、両手指による子宮マッサージ、子宮内タンポンの装着、酸素の供給、挿管による人工呼吸等の産科的処置を施したが、亡博子は同日午後六時ころ、出血及び出血によるショックを原因として死亡したことの各事実が認められる。

第二被告由美子、同伸一、同恵美に対する請求(山口医師の責任)について

原告らは、亡博子の死亡につき、亡山口医師の責任原因として、亡博子を被告病院に転院させるに当たり、被告病院の医師に対して亡博子に対する診療の経過、状態を報告すべき義務を尽くさなかつたこと、及び亡博子を転院させるについては、出産予定日が既に経過しているのに陣痛が微弱であり、胎児が巨大児であることに気付き得た時点で、速やかに帝王切開等の医療処置を考え、その処置をとることができる、医療施設が整つた病院を選択して亡博子を転院させるべきであつたのにそのいずれの点についてもこれを怠り、陣痛促進剤の投与を継続した旨主張するので検討する。

一転院の際の報告義務の懈怠について

亡山口医師が亡博子を被告病院に転院させるに際し、亡博子に亡山口医師の名刺を交付したが、被告病院に対し、亡博子の診療に関する事項を記載した書面を何ら交付しなかつたことは当事者間に争いがない。

この点に関し、承継前被告山口周一本人尋問の結果(以下「山口本人尋問の結果」という。)によると、亡山口医師は、亡博子を被告病院に転院させることが相当であると判断した時点(九月一三日の午前一一時少し前ころ)で被告病院の荻野医師に電話により、亡博子の経過、即ち二回目の出産であること、一回目の出産では胎児が三八〇〇グラムあり頸管裂傷を生じたこと、デリバリンの投与情況、陣痛の程度、子宮口の開口の具合等について説明して転院の承諾を求め、その承諾を得た旨の供述があり、〈証拠〉によると、亡山口医師から被告病院に転院させるべき患者の受け入れについて依頼があるときは、予め電話により連絡と了解を求めて来るのが通例であり、亡博子の本件転院の場合も、事前(午前一一時少し前)に亡山口医師から荻野医師に、電話により、転院させることの了解を求める趣旨の電話があり、その際亡博子について二、三やり取りがあつたが、その内容については記憶していない旨の証言がある。更に、前掲〈書〉証中には、転院に先立ち電話により依頼した旨の記載がある。

医師が、入院が予定される患者を他の病院に転院させようとする場合において、予め相手方の都合を聞き、その了解を求めることは当然のことと考えられるところであるから、亡山口医師が予め荻野医師に電話により転院の了解を求めた旨の右供述は信用するに足りるものというべきであり、その際患者の状態、診療経過等について説明し、あるいは質問することも、転送しようとする患者についての担当医師間の通話である以上当然のことと考えられるところであつて、右電話により、亡博子の診療経過等について説明した旨の、山口本人尋問の結果中の右供述に不自然なところはなく、措信することができるものというべきである。

患者を転院させるに当たり、患者の状態、診療経過等について、転院先の医師に報告するのに、より正確を期するためには、依頼する医師が相手方医師に面接して説明するか、診療経過等の必要事項を記載した書面を交付することが望ましいことはいうまでもないところであるが、患者の状態、診療の内容が特に重大、複雑でない場合にも総てこれを要求することは相当でないし、電話によつて説明することが、書面をもつてするよりも、かえつて相手方医師の質問に応答できる点において適切な方法であるとも考えられる。

ところで、亡博子の、転院時における状態、亡山口医師がそれまでに亡博子についてとつた診療上の処置、亡山口医師が転院を決断した理由については既に認定したとおりである。右認定の事実によつてみると、転院時における亡博子の状態は、分娩予定日から一一日を経過し、陣痛誘発剤デリバリンを投与したが陣痛を発来するに至らない状態にあり、陣痛の微弱により分娩が遷延し、これに伴う故障が生じるおそれはあつたものの、特に差し迫つた危険、異常があつたものではなく、亡山口医師による処置も、右デリバリン投与の他に特段の処置をとつたものでもないのであつて、このような事情の下にあつては、電話による右認定のような連絡をもつて特に不十分な処置ということはできないというべきである。

以上のとおりであるから、転院の際の、転院先の医師に対する報告、連絡につき亡山口医師に義務懈怠があつた旨の主張は理由がない。

二陣痛促進剤の投与及びその後の処置における義務違反について

1  亡山口医師が亡博子に対し、促進剤であるデリバリンを投与した事実については既に認定したとおりである。

2  〈証拠〉によると、亡博子は、昭和四五年三月三日山口産婦人科医院において、亡山口医師の処置により第一子を出産したが、その際、陣痛促進剤であるアトニンO五単位を二回(二日間)にわたつて投与した結果、出産予定日から九日を経過して、吸引分娩によつて出産し、分娩時の胎児は標準より相当に大きく体重は三八〇〇グラムであり、分娩に当たり頸管裂傷を生じ、三五〇ミリリットルの出血があつたことが認められる。

3  しかし、鑑定の結果によると、亡博子の転院時の状態、第一子分娩時の経過に照らして、分娩が遷延し、あるいは分娩時の頸管裂傷等による故障が生じることも予測され、これに対する適切な対応が考慮されなければならない状態ではあつたが、そうであるからといつて、亡博子の転院時において、直ちに帝王切開による分娩を検討しなければならない状態にあつたものではなく、陣痛を促進して、産道からの自然分娩を図ろうとしたことに誤りはなかつたと認められる。

そうであるとすれば、亡山口医師が、帝王切開の方法を検討することなく、陣痛を誘発、促進させる意図でデリバリン錠を亡博子に投与したことをもつて誤りとするのは失当である。

〈証拠〉によると、亡山口医師が亡博子に投与したデリバリン錠は、量、使用回数、使用間隔の点において相当であり、特段の誤りがあつたものとは認められない。

4  〈証拠〉によると、被告病院は、亡博子の転院時において、産婦人科、内科、小児科、外科の各科を備え、その診療に従事していた医師は、小児科が一人、他の各科はそれぞれ二人ずつであり(この事実は、既に認定したとおり。)、危急の際に対応することができるに足りる人的構成を有していたこと、亡山口医師は、昭和四五年ころから患者の状態に照らし、人的、物的設備が整つた病院で処置することが相当と判断した時は、被告病院に転院させる処置をとつてきていたことが認められるのであり、これらの事実に照らすと、亡山口医師が、亡博子の転院先として被告病院を選択した点についても、誤りがあつたということはできない。

5  よつて、陣痛促進剤の投与及びその後の処置における義務違反に関する主張も理由がない。

以上のとおりであつて、亡山口医師の医療上の過誤を前提とする、被告由美子、同伸一、同恵美に対する請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がない。

第三被告柏堤会に対する請求について

一荻野医師が、被告柏堤会経営の被告病院産婦人科医師として、亡博子の第二子(原告典子)出産について診療に当たつたこと、亡博子が山口産婦人科医院から被告病院に転院の上、荻野医師の診療により原告典子を分娩した後に死亡した事実は当事者間に争いがなく、転院から死亡までの経過の概要については既に認定のとおり(第一の二)である。

二そこで、亡博子の死亡に対する荻野医師の責任について、原告らの主張するところに基づいて検討する。

1  荻野医師のアトニンOの投与について

原告らは、荻野医師が亡博子に対し、アトニンO一〇単位を点滴の方法により投与した後、一単位を筋肉注射の方法によつて投与したとの事実を前提として、アトニンOを過量投与した旨主張する。

よつて検討するに、第二診療録、第一診療録によると、第一診療録においては、診療処置の6として、アトニンO一〇単位を、五パーセントのぶどう糖溶液五〇〇ミリリットルに混じて投与した旨、同処置の8としてアトニンOを〇・三、一単位投与した旨の各記載があり、第二診療録においては、診療処置の6としてアトニンO一〇単位を、五パーセントのぶどう糖溶液に混じて、静脈から点滴の方法により投与した旨、同処置の8としてアトニンO一単位を、筋肉注射の方法により投与した旨の各記載があることが認められ、前掲証人荻野の証言によると、第一診療録は、当初、亡博子の出産が正常に経過することを前提として、保険診療の適用を受けない自費診療用に記載されたものであるが、亡博子の状態の変化により、保険診療の対象となつたため、保険診療による医療費請求を前提とする診療録とするため、第一診療録を整理の上移記して第二診療録を作成したもので、第一診療録の医療処置8の記載はアトニンO一単位(一ミリリットル)の薬液を使用して、内〇・三ミリリットルを投与した趣旨の記載であり、第二診療録の医療処置8の記載は、健康保険の医療費請求上は、使用した薬液として一単位全部を記載したものと認められる。

以上によつて、右二通の診療録についてみると、その記載の順序に照らし、アトニンOの投与については、一〇単位を点滴により投与したのち〇・三単位を筋肉注射により投与したようにみられる。

しかし、この点について、前掲証人荻野の証言によると、亡博子に対するアトニンOの投与は、まず〇・三単位を筋肉注射し、その後において一〇単位を五〇〇ミリリットルのぶどう糖溶液に混じて点滴の方法で投与したが、胎児が娩出された時までに実際に投与された量は、一単位を超えた程度、溶液の量にして一〇〇ミリリットルに満たない程度であつた、診療録に一〇単位と記載があるのは、点滴のためにぶどう糖液に混じて点滴用器具に設定した薬剤の量であつて、その全部を投与したというものではないというのである。

そこで更に検討するに、鑑定の結果によると、通常、診療録は診療処置の内容、経過を処置の順序に従つて記載するものであり、アトニンOの投与について、点滴投与の前に、アトニンOに対する反応を調べるために〇・〇一単位を一分間間隔で六回静脈注射することはあるが、点滴投与に加えて筋肉注射するということは意味がないというのである。しかし、アトニンOの投与方法については、〈証拠〉によると、最初から静脈に点滴して投与する方法のほかに、まず静脈注射又は筋肉注射の方法で投与し(一回の量は〇・五ないし一単位)、その効果がみられないときは点滴投与に切り替える方法のあることが示されているのであつて、荻野医師が、〇・三単位のアトニンOを筋肉注射した後、点滴投与に切り替えたとしても、理解しがたいような不自然な処置とは考えられない。

また、前掲証人荻野の証言によると、第一診療録は、診療処置を行つた都度記載したものではなく、診療の際にとつておいたメモ等に基づいて後に記載した部分があり、記載の順序及び付せられた番号と実際の医療処置の順序とは必ずしも一致しないというのである。

そこで第一診療録の記載についてみるに、同診療録には、当然に行なわれたと考えられる問診の結果、血圧等の測定結果、子宮口開大の程度等診察の結果について全く記載がなく、ほとんど、投与した薬品名とその数量、縫合等の処置の項目、内容の概略が列記されているに過ぎないもので、診療の経過、内容を正確に記録しようとして記載されたものとみることはできない。更に、第一診療録の記載に前掲証人荻野の証言を併せてみると、分娩の準備として他の薬剤の投与に先立つて処置された灌腸がアトニンO一〇単位投与の後に記載されており、13の処置として吸引分娩が記載されているのに、胎児の分娩後に投与されるべきでありそのように投与されたと認められる子宮収縮剤メテルギンの投与が10の処置として記載されており、分娩が終わつた後に投薬が指示された、子宮収縮剤バルタイン、消炎酵素剤キモタブの投薬が、吸引分娩の前に当たる11、12の処置として記載されていることが認められる。

以上の点を総合して勘案すると、アトニンO投与の順序については、第一、第二各診療録の記載に拘わらず、証人荻野の前記証言により、〇・三単位の筋肉注射の後点滴投与が行なわれたものと認めるのが相当である。

次に、投与の量についてみるに、一〇単位のアトニンOを点滴投与した後、その効果がないとして筋肉注射をしたと認めることができないことは右認定のとおりである。第一、第二各診療録には、アトニンO一〇単位静注(点滴)の記載があるのみで、前記荻野の証言のようにその一部を使用して残りがあつたこと、点滴の際の点滴数について何ら記載がないから、右診療録の記載からすると、一〇単位全部を投与したものとみられないでもない。

しかし、鑑定の結果によると、亡博子にアトニンOの投与を始めて胎児が娩出された五六分間に、アトニンO一〇単位全部を点滴の方法で投与することは、医師の常識としては絶対にないはずのところであるというのであり、鑑定の結果と〈証拠〉によると、アトニンOを点滴投与する場合は、当初は、一分間に五ないし二〇滴程度を投与し、陣痛の性情、児心音、子宮口の開き具合を見ながら次第に滴数を増して行くべきものとされており、急激な投与は禁じられているものと認められる。前掲証人荻野の証言によると、荻野医師は、昭和三〇年医師の免許を取得し、以後昭和三六年七月まで昭和医科大学産婦人科医局において産婦人科学を専攻し、その後引き続いて産婦人科医として診療に従事していたもので、産婦人科医としての知識、経験ともに不足するところはなかつたものと認められる。

これらの点を総合すると、前記診療録の記載により、荻野医師が、一時間足らずの間に、アトニンO一〇単位全部を投与したとみるのは極めて不自然なことというべきであり、前判示のとおり、右診療録の記載が極めて不完全であることをも考慮すると、前記荻野の証言により、アトニンOの点滴による投与は、一〇単位を、五パーセントのぶどう糖溶液五〇〇ミリリットルに混じて点滴用器具に設定し点滴を行つたが、一〇〇ミリリットルに満たない程度の量を投与した段階で、胎児が娩出され、投与は中止されたものと認めるのが相当である。

以上のとおりであるから、アトニンOが過量に投与されたものと認めることはできない。

次に、原告らは、亡博子の子宮が全開に至らないのにアトニンOを投与し、吸引分娩と相まつて、急激に分娩を進行させたため、亡博子に大量の出血を生じさせた旨主張する。

〈証拠〉によると、アトニンOの投与は、子宮口の開口不全のあるときは、禁忌とされているが、子宮口が全開であることを必要とするものではなく、子宮口が二指開大以上であることを要するとされているところ、〈証拠〉によると、亡博子の子宮口は、山口産婦人科医院において診療した最終段階において三指開大であり、荻野医師がアトニンOの投与を決定した当時においては三指半開大であつたことが認められ〈る〉から、子宮が全開の状態でないのに、アトニンOを投与したことを誤りとすることはできない。

前掲証人荻野の証言によると、亡博子の分娩は、自然破水し、アトニンOの投与後少しずつ進行して胎児の娩出を終えたというのであるが、第一、第二各診療録には、破水の時期、子宮口が全開に達した時期等について何ら記載がないため、亡博子の分娩がどのように進行したかについて、右証言のみによることなく、更に検討を要するものと考えられる。

そこで検討するに、〈証拠〉によると、分娩の持続時間は経産婦においては通常陣痛開始から破水までの第一期が四ないし六時間、子宮全開から胎児娩出までの第二期が一ないし一・五時間とされているものと認められるところ、亡博子が経産婦であつたこと、亡博子の分娩の経過として、分娩のあつた一三日午前四時五〇分ころ分娩第一期に属する出血(いわゆる「しるし」)があり、同日午前一〇時過ぎころ陣痛があつたこと、そのころには、子宮は三指開大であつたことは既に認定のとおりであり、これらの点によつてみると、亡博子の分娩がアトニンOの投与による陣痛促進の効果によつて進行したものであることは明らかであるが、それが特に異常に急速に進行したとすることはできないというべきである。また、鑑定の結果、前掲乙第五号証の一、前掲証人荻野の証言によると、分娩によつて亡博子に生じた頸管裂傷は二針縫合、膣壁裂傷は一針縫合で、その程度はいずれもたいしたものではないといえる(鑑定の結果)程度のもので、この事実は胎児の体重が、平均より相当に大きい三八三〇グラムであつたことをも考慮に入れると、分娩が特に異常に急速に進行したものではなかつたことを窺わしめるものと考えられる。

これらの点に照らすと、前掲証人荻野の前記証言は特に不自然なものではなく、措信するに足りるものということができる。

以上のとおりであつて、アトニンOの投与の誤りについての主張はいずれも理由がない。

2  分娩後に亡博子に生じた出血に対する対応について

(一) 出血原因の診断について

原告らは、分娩後(胎盤娩出後)に亡博子に生じた出血については、頸管裂傷、子宮破裂が考えられるべき事情にあり、少なくとも弛緩性出血と断定すべき根拠はなかつたのに拘わらず、荻野医師が、出血原因を弛緩性出血と断定して、他の出血原因のあることを考慮して対応しなかつたことに誤りがある旨主張するのでこの点について検討する。

鑑定の結果と〈証拠〉によると、分娩終了後亡博子に生じた出血の原因としては、通常、原告ら主張のとおり弛緩性出血の他に、頸管裂傷、子宮破裂の存在が考えられるものと認められるところ、〈証拠〉によると、荻野医師は亡博子に生じた出血について、その原因を弛緩性出血と判断し、これを前提としてその対応処置をとつていたものと認められる。

鑑定の結果、前掲証人荻野の証言によると荻野医師は、亡博子について頸管裂傷が生じていることを認め、縫合の処置をとつていることが認められるところ、縫合の処置がとられている以上、裂傷の部位、程度について診断、確認の上行なわれたものと推認するのが相当であり、右診断に誤りがあつたものと認めるに足りる事情は見当たらないから、前記出血原因の中から、頸管裂傷を除外した判断をもつて誤りとすることはできない。

次に、子宮破裂についてみるに、鑑定の結果と〈証拠〉によると、荻野医師が、亡博子に生じた出血について、その原因から子宮破裂を除外し、弛緩性出血と診断した根拠となるべき事実については診療録上何ら記載がないものと認められる。

しかし、鑑定の結果と〈証拠〉を総合すると、子宮破裂は、過強な陣痛、産道の狭窄等によつて生じる子宮の強い収縮、胎児の頭部、肩部等によつて生じる損傷等によつて、子宮側壁に裂傷を生じるもので、弛緩性出血は、子宮に対する器械的操作、急速分娩、子宮の疲労、先天的体質等の諸因子により、子宮の収縮が失われ、胎盤が剥離して生じる子宮側壁面の創傷部からの出血が止まらなくなるものであること、子宮破裂の診断は、消毒した手指を子宮内に挿入して破裂箇所を見出だすことによつて確診され、子宮は収縮しており、子宮収縮剤による止血の効果はないこと、弛緩性出血の場合は、子宮が弛緩して収縮力を失い、子宮が柔らかく大きくなり、時に異常に大きくなること、弛緩性出血は、娩出後数分内に生じ、収縮剤に反応を示すことが認められるところ、〈証拠〉によると、亡博子の出血は、胎盤娩出後五ないし一〇分程経過して生じたこと、胎児娩出から胎盤娩出までは正常に経過したこと、出血後子宮収縮剤を投与した結果は、一時的には出血が止まるが再び出血が生じ、波状的な出血を繰り返したこと、出血が生じて三〇分程経過した午後四時ころ、原告洋に荻野医師から容態について説明があつたが、その際「子宮が広がり過ぎて風船玉が膨れ過ぎた状態で、戻らなくなつた状態」である旨の説明があつたこと、荻野医師は、亡博子の出血に対して、子宮底のマッサージを施したり、内診指と外診指を使つて子宮を強くマッサージする処置をとつており、子宮の状態については把握していたとみられることの各事実が認められる。

以上認定に係る事実を総合すると、荻野医師が、亡博子に生じた、分娩後の出血を、弛緩性出血によるものと診断したことをもつて誤りとすることはできないものというべきである。

鑑定の結果中には、荻野医師が、亡博子の出血を弛緩性出血と断定し、子宮破裂の存在を全く考慮しなかつた点に疑問があると指摘する部分があるが、右指摘は、第一、第二各診療録中に弛緩性出血と断定した根拠が何ら記載がないこと、アトニンOが過量に投与されたことを理由とするもので、右認定、判断の妨げとなるものではない。

(二) 外科的処置について

原告らは、亡博子に生じた分娩後の出血については弛緩性出血の他に、子宮破裂、頸管裂傷の存在を考慮して、止血のための外科的処置(子宮摘除、出血部の縫合など)をとる必要があつたのに、荻野医師が出血の原因を弛緩性出血と即断し、右外科的処置をとらなかつたことは荻野医師の過失である旨主張する。

荻野医師が、主張の外科的処置をとらなかつたことは当事者間に争いがないところであるが、荻野医師が、亡博子に生じた分娩後の出血を弛緩性出血と判断したことをもつて誤りとなしえないことは既に判示したとおりであるから、原告らの右主張は理由がない。

なお、鑑定の結果と〈証拠〉によると、弛緩性出血による出血に対する最も確実な処置として、開腹手術による子宮輸入管の結紮、子宮の全摘等の外科的処置があることが認められるが、同各証拠によると、弛緩性出血による出血は、両手指による子宮の圧迫、摩擦、動脈の圧迫、子宮収縮剤の投与等の保存的処置によつて多くの場合その目的を遂げることができるのであり、これによつて止血できないときに、外科的処置がとられるべきであること、外科的処置をとるときは、出血を伴い、母体に対する影響が大きいため、母体がこれに耐えられる状態にあることと、輸血の態勢が整つていることが必要であることが認められるところ、前掲荻野の証言によると、亡博子の出血に対し、荻野医師は、前記保存的各処置を講じたが、一時的に出血が弱まりながらも再び強く出血することを繰り返し、亡博子の身体的状態が、多量の出血のため悪化し外科的処置に適さないものと判断してこれをなさなかつたものと認められ、この判断を誤つていたものとするに足りる資料は見当たらないから、荻野医師が、弛緩性出血に対する処置として外科的処置をとらなかつたことについても誤りとすることはできない。

(三) 昇圧剤の使用について

原告らは、荻野医師が亡博子の出血に対して、有効な止血対策をとらないままで昇圧剤を投与した結果、亡博子の大量出血を速めた旨主張し、〈証拠〉によると、荻野医師は亡博子の出血に対し、昇圧剤であるアドレナリン、ノルアドレナリン、強心剤であるとともに昇圧剤であるカルニゲンを投与したことが認められ、鑑定の結果によると、出血を止めないままで昇圧剤を使用することは、出血を増加させるおそれがあることが認められる。

しかし、前掲荻野の証言によると、荻野医師は、亡博子の出血が大量に、急速に進行し、亡博子の脈が弱くなり血圧が下がつたのに対応する処置として右昇圧剤を投与したものと認められるところ、右昇圧剤の投与によつて、現実に亡博子の出血が促進され、亡博子の死亡の原因をなしたものと認めるに足りる資料はない。

(四) 輸血態勢の不備について

(1) 輸血用血液の事前確保等について

原告らは、亡博子の分娩については、事前に輸血用血液を確保するか、確保のための手配をしておくべきであつた旨主張し、その理由として、(イ)第一子出産の際、大量出血があつたこと、(ロ)原告典子の出産に際して微弱陣痛、巨大児、出産予定日超過、デリバリン投与等、弛緩性出血等による大量出血が生じやすい要素があつたこと、(ハ)アトニンOの大量投与があつたことの各事実により、亡博子に、原告典子の出産に際し大量出血が生じることが予想されたのに、五六分間という短い時間の間に吸引分娩した旨主張する。

しかし、第一子出産の際の出血が三五〇ミリリットルであつたことは既に認定のとおりであり、前掲甲第一五号証によると、分娩の際の出血は、五〇〇ないし六〇〇ミリリットルが正常範囲であると認められるのであるから、第一子出産時の出血が大量出血であつたということはできない。

原告典子の出生時の体重が、三八三〇グラムであつたことは既に認定のとおりであるところ、荻野の証言によると、四〇〇〇グラム以上の児を巨大児というものと認められるのであるから、原告典子が巨大児であつたということはできない。

亡博子の原告典子の分娩が、予定日を一一日間経過していたことは当事者間に争いがないところであるが、右程度の経過により大量出血を予想すべきものと認めるに足りる資料は見当たらない。

原告典子の分娩につき亡博子の陣痛が微弱であつたこと、亡山口医師によつて陣痛誘発剤であるデリバリンが投与されたこと及びその量、荻野医師によつて、陣痛促進剤であるアトニンOが投与されたこと及びその量については既に認定したとおりであり、〈証拠〉によると、微弱陣痛、陣痛促進剤の過量投与が弛緩性出血の原因として指摘されていることが認められるが、デリバリン、アトニンOの投与が、過量投与と認め難いことは既に認定したとおりであり、右各証拠によつても、右は、多くある弛緩性出血の一因子として指摘されているのであつて、これらの因子があつたからといつて直ちに、輸血用血液を確保し、あるいは確保の手配をしなければならない程に弛緩性出血が生じる危険性があつたものと認めるに足りる資料は見当たらない。

原告典子分娩までの経過が、特に急速な分娩と認め難いことは既に判示のとおりであり、吸引分娩が、出血の原因になるような不自然な経過、方法でなされたと認めるに足りる証拠はない。

以上のとおりであるから、荻野医師が、亡博子の分娩に当たり、事前に輸血用血液を確保しなかつたことをもつて過失とすることはできない。

(2) 原告洋の血液提供の申出を受け入れなかつた点について

〈証拠〉によると、亡博子の出血が続いていたのに輸血用保存血液が到達しない段階において、原告洋から荻野医師に対して、亡博子の血液型と同じであるから自分の血液を亡博子に輸血してもらいたい旨の申出が、再度にわたつてなされたが、荻野医師がこれに応じなかつたことが認められる。

しかし、鑑定の結果、前掲証人荻野の証言によると、緊急の場合に血液提供者があつたとしても、提供者の血液を採血して輸血するためには、提供者の健康状態、提供血液の血液型等の適性を検査する必要があり、そのために相当の労力と時間を必要とし、しかも採血することができる血液の量が限られているので、患者が緊急の状態にあつて、その応急の処置に医師の手が奪われている時に、血液提供の申出があつたとしてこれを採血して輸血することは、実際には容易でないこと、荻野医師もそのような判断により、手配済みの保存血液を待つて輸血した方がよいと考えて、原告洋の申出を受け入れなかつたことが認められるのであつて、そうであるとすれば、荻野医師の右処置をもつて過失ということはできない。原告洋以外の親族等について、容易に採血して輸血することができるような血液提供者があつたものと認めるに足りる証拠はない。

(3) 亡博子に対する輸血について

原告らは、亡博子に対する輸血が全くなされなかつた旨主張する。

しかし、〈証拠〉によると、輸血用血液は亡博子の胎盤娩出後初めての大量出血が生じた後直ちに、血液配給センターとなつていた菊地商店に、一〇〇〇ミリリットルを発注し、続いて直ぐ、更に一〇〇〇ミリリットルを追加注文したこと、輸血用血液は、約一時間後の午後四時三〇分ころ被告病院に到着し、荻野医師は直ちに同血液を用いて亡博子に輸血を開始し、亡博子が死亡するまでに、六〇〇ミリリットルを輸血したことが認められる。原告洋本人尋問の結果中には、病室の近くの椅子に座つていたが、輸血用血液が到着したのを見たことはない旨の供述があるが、同尋問の結果によると、輸血用血液が到着したとされる午後四時三〇分ころには、原告洋は荻野医師と亡博子の容態について説明を受け、同医院から容態が良くないので親族の者を呼ぶように言われたというのであるから、必ずしも終始、病室の前で輸血用血液到着の有無を確認していたと言い切ることはできないと考えられるし、却つて同尋問の結果中には、午後四時三〇分過ぎころ、近くでサイレンのような音を聞いたので輸血用血液が届いたと思つたが、実際に血液が上がつてきたかどうかは見ていない旨の供述があり、右供述によると、そのころ、血液運搬用の緊急自動車によつて、輸血用血液が到着したことが窺われる。

3  転院手続きにおける義務違反について

亡博子の転院時における亡山口医師と荻野医師との間の引継ぎの内容については、亡山口医師の責任について判示したとおりであつて、転院手続きについて、主張のような義務違反があつたものということはできない。

三以上判示したとおりであつて、被告病院における亡博子の診療については、診療処置を検討するために最も重要と考えられる診療録の記載が著しく不備であつて、その点において、厳しく非難され、その診療処置について不信感をもたれても当然と考えられる。 しかし、亡博子に生じた胎盤娩出後の出血が、弛緩性出血によるとした荻野医師の判断が誤りと認められないこと、アトニンOの投与について右出血の原因となるような過量投与がなされたものと認めるべきでないこと、その後の処置について特に誤りがあつたものと認め難いことも右に判示したとおりであるから、荻野医師の亡博子に対する医療上の過誤によつて亡博子の死亡の結果が生じたことを理由とする被告病院に対する請求も理由がないというのほかない。

第四〈省略〉

(裁判長裁判官川上正俊 裁判官上原裕之 裁判官石栗正子)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例